待ちに待った今年の新米を食べました。
精米して、まずは白米に。
籾から、玄米になって、白米になって、
ああ、本当にお米がとれたんだなあ、と実感しました。
玄米を手にすくってみると、ふんわりまるくてツヤツヤしていて、
とてもとても綺麗で見飽きません。
神棚に感謝を込めてお供えし、お米を炊きました。
なんともいえない気持ちで、ご飯を口にいれると、
甘くて、もっちりしていて、しっかりしていて、
ああ、美味しいなあ・・・・・・・・・・!
と思いました。
食味が良いとか、舌で味わうというよりも、
心と胸がいっぱいで、とてもとても美味しく感じました。
はじめて自分で育てたお米を食べる時は、
手で草取りした時のことや、
今までの頑張った労働が思い起こされて、
ようやくできた・・・!という
感動の喜びがあるのではないかなあと想像していましたが、
不思議なことに今までの作業はあまり思い出しませんでした。
お米を食べながら、すごく感じたのは、
お米は、天と地が人間に「生きていいんだよ」と許しているような、
人間への贈りものというか・・・。
そんなことを感じました。
自然は時に容赦ない大きな力で人を簡単に飲み込み、
(それが当たり前のあり方なんだけれど)
人は、自分もその一部であるはずの自然や地球を破壊する毎日。
時には、「人って、地球のやっかいものだなあ」
と思う日もあります。
でも、そういったすべてを超えたような、
天と地は、そういった人の業をも、わかっていながらも、
「生きていい」という心があるのではないかなあ。
私が今、生きているということ自体を、うけとめてもらっているような、
そんなことを勝手に感じながら食べていると、胸がいっぱいになりました。
昔、川崎に住んでいた時に、道路と道路の真ん中に、
三角の小さな小さな田んぼがあって、
おじいさんとおばあさんが稲を育てておられました。
通勤の途中、稲穂が実って、風にゆれるのを見て、
はじめて自然界の中に愛がある、と感じたのを思い出しました。
お米って、やっぱり、天と地からの愛のかたちなのではないかなあ。
言葉にすると、軽々しくて嫌になりますが、
でも、一粒一粒に、自然の心がこもっているような、
いのちをつなごうとする心、そのものであるような、
そんな気がしました。
水稲とは、すごい贈りものなのではないかなあ。
ずっと同じ場所でつくりつづけられ(普通は連作障害がでる)、
種は何年も生きつづけてくれ、
強く元気で、たくさんのいのちを育むことができる。
おかずにもあまり手がでず、二人ともお米ばっかり食べた夕食でした。
ごちそうさまでした。感謝。
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知り合いの農家さんのブログで読んで、感動したエピソードがあったのですが、自分の田んぼの師匠に、「自分でつくったお米を食べたら、さぞ美味しいんでしょうね」と言ったそうです。そしたらその師匠が「おれは米をうまいだ、まずいだ、と言って食べたことはない」と言われたそうです。なんとも、本当の百姓の言葉だなあ、と、私もすごく感動しました。百姓の心というか、百姓魂も、これからの日本で引き継いでいって欲しい財産の一つだなあ、と思いました。